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広島地方裁判所 平成2年(わ)868号 判決

主文

被告人を懲役一八年に処する。

未決勾留日数中一二〇日を右刑に算入する。

理由

(罪となるべき事実)

被告人は、

第一  平成二年一〇月七日午後六時過ぎころ、広島市〈住所略〉の自宅(当時)一階六畳間において、国勢調査票の回収のために被告人方を訪れた国勢調査員A女(当時三六歳)から、右調査票の記入方法等を教えて貰っているうちに劣情を催し、強いて同女を姦淫しようと決意し、同日午後六時二〇分ころ、右同所において帰り仕度を始めた同女を背後に回り込むや、正座していた同女の頸にいきなり自己の右腕を巻きつけ、右手首を左腕の内側にあてがい、左手で同女の頭部を押さえつけるなどして力一杯同女の頸部を締めつけてその反抗を抑圧したうえ、強いて同女を姦淫し

第二  右第一の犯行の発覚を防ぐために同女を殺害しようと決意し、前同日午後六時四〇分ころ、前同所において、仰向きに倒れたままの同女の上に跨がり、その頸部を左手で強く圧迫し、よってそのころ同所において、頸部圧迫により同女を窒息死させてこれを殺害し

第三  右A女の死体の処置に窮したあげく、その翌日(平成二年一〇月八日)午前一時ころ、前記自宅から近くの広島市安佐南区祇園五丁目二一番九号福永啓二方南東約三〇メートル付近の竹薮上方の農道まで右死体を抱えて運んだうえ、これを右竹薮の中に投げ捨て、もって死体を遺棄し

たものである。

(証拠の標目)〈省略〉

(法令の適用)〈省略〉

(量刑の理由)

本件は、たまたま国勢調査員として国勢調査票の作成を依頼するために訪ねてきた被害者に対して好感を抱き、性的な関心を持った被告人が、右調査票を回収するために数時間後に再び訪ねて来た被害者を自宅居間に招き入れ、同女から右調査票の記入方法を教わるうちに劣情を催し、やにわに同女の頸部を締め付け、失神状態に陥った同女を強姦した後、その犯行の発覚を恐れて同女の頸部を圧迫して殺害し、更にその死体を自宅近くの竹薮に運んで投げ捨て、これを遺棄したという事案である。

これら各犯行は、たまたま身近に被害者の髪の毛の匂いを嗅いだことなどから自らの欲情を制御することができなくなり、判示のとおり、やにわに被害者の背後から襲いかかってこれを強姦したうえ、その犯行を隠蔽するためにこれを殺害し、死体を遺棄するなど、一時的な自己の欲望と激情の赴くままに、罪を犯し、その犯行の発覚を免れるために更に重い罪を重ねるという自己中心的かつ短絡的な動機に基づくものであり、その犯行態様も、激しく抵抗する被害者の頸部を強く締め続けて失神状態に陥らせたうえ恣にこれを凌辱し、更にその頸部を相当時間強く圧迫して被害者を殺害した後、深夜その死体を抱えて運び出し、付近の竹薮の中に投げ捨てるなど、残虐極まりない所業というほかない。しかも、事件後に被害者の足取り調査に当たっていた警察官に対して虚偽の申告をし、犯跡を隠すために血痕の付着した畳に醤油を振りまき、カーペットの一部を切り刻むなどの証拠湮滅行為に出ていたことからすると、その限りにおいて、このような重罪を犯しながら、なおも罪責を逃れようとする被告人の卑劣さも指摘できないではない。

そしてこのような被告人の所為によっていわれない辱めを受けたうえに、かけがえのない生命までも奪われた被害者の恐怖と屈辱・苦痛は言うに及ばず、常日頃から町内会の役員等として地域社会の活動に積極的に参加してこれに貢献し、これらの実績に基づいて本件当時たまたま国勢調査員に任命され、国勢調査に従事していたためにこのような惨劇の犠牲者となり、夫とまだ幼い子供二人を残して非業の死を余儀なくされた被害者の恨みと無念さは察するに余りあり、残された遺族の悲嘆と痛憤の情も極めて深く、その精神的、物質的損失には量り知れないものがあると認められる。

そしてまた、本件が国勢調査に従事する関係者らに対して大きな不安と影響を及ぼしたことは容易に推察することができるほか、積極的な熱意と善意に基づいてその職務を遂行していた国勢調査員に対する酷たらしい犯行として広く世人に衝撃を与えたことも量刑上軽視できないところである。

これらの事情からすると、被告人の刑事責任は極めて重大であり、これに対して懲役二〇年を求刑する検察官の意見にも相当の理由があると考えられる。

しかしながら、当裁判所は、本件関係証拠により認められる次のような事実に基づき、以下に述べるような点を被告人に有利な事情として斟酌することができると考える。即ち、

1  被告人は、経済的に恵まれない環境の中で育ち、人並み以上の能力もなく、社会人となってからも転職を繰り返し、気弱で内向的な性格と様々な抑圧に基づく劣等感等に苛まれながらも、これまでにさしたる非行、前科歴もなくその青年期を過ごしてきた者であるが、本件直前ころには、それまでに交際していた女性との仲が、主としてその女性の金銭問題が原因となって破綻したため、自己の結婚問題等についてますます悲観的になって鬱々とした日を送っていたところ、たまたま父母らが共に東京方面へ出掛けるなどして被告人一人が残っていた自宅へ国勢調査のために訪れてきた被害者を一目見るなり、被告人は同女の容姿に心を奪われるとともに同女に対して強い欲情を抱き、その後再び同女が調査票の回収に来宅した際、玄関の電球が切れて薄暗かったために招き入れた居間で同女と二人きりになり、身近に同女の髪の毛の匂いを嗅いだことなどに触発されて被告人の鬱積していた欲求が爆発し、本件一連の犯行に突き進んだものである。このように、本件は生来的に凶悪な犯罪的性格を持った者が見境なく女性を襲ったという類の事件ではなく、様々な面で恵まれなかったものの、これまではそれなりに社会に適合しようと努力してきた者が、それまでの欲求不満を一気に爆発させるような条件がたまたま重なった状況の中で、図らずもその人間性の弱さを露呈するに至った事件と見ることができる。その意味において、本件各犯行にはさほど悪質な計画性は認められず、むしろその発端においては偶発的な要素が大きく働いたものと言うことができる。

2  被告人は、前記のような犯跡隠蔽工作を行ってはいるが、その一方で判示第三の犯行当日の夕方には自己の犯行を打ち明けるべく実姉方に電話をかけて至急会いたい旨伝え、その翌日である同年一〇月九日午前四時ころには、実姉の説得に応じて広島北警察署に出頭して本件殺人、死体遺棄事件につき自首し、当初の二日間程は、罪の破廉恥さと重大さを恥じかつ恐れる気持ちから強姦の点を秘匿していたものの、その後は一貫して本件犯行を認めて率直にその詳細を供述している。

検察官は、右自首の点につき、これが本件捜査を容易にしたものではなく、被告人の改悛の情が顕著であることを現すものでもないとして、これを量刑上考慮すべきでない旨強く主張するのであるが、仮に検察官の主張するように被告人が既に重要参考人として浮かびつつあったとしても、被告人の自首により、本件のような重大事犯における犯人の早期検挙に対する社会的要請ないし関心という面において、少なくとも捜査機関としての心理的負担が大幅に軽減され、かつ犯人特定のための捜査手順につき時間的、物理的な手間が省けて効率的な捜査が可能になったことは否定できないうえ、その後の被告人の供述態度等からして、右自首の動機のうちに、自己の罪の重大さに対する畏れないしは良心の呵責が内包されていることは優にこれを認めることができるものである。そして、右自首に至るまでの若干の犯跡隠蔽行為や逃亡を考えての一時の逡巡など一見真摯な改悛の情にそぐわないように見える行動も、前記1で述べたような本件犯行に至る経過や被告人の性格傾向等に鑑みると、被告人の内心における人間的弱点と良心の葛藤を如実に現すものとして了解可能であって、必ずしも自首の時点における被告人の改悛の情の真摯性と矛盾するものではない。

してみれば、本件において右自首の点は、これを理由にして直に被告人に対する刑を裁量的に減軽することは相当でないにしても、外形上は凶悪無残な犯行と言える本件におけるいわば唯一の救いとして、被告人のその後の供述態度等とあいまち、被告人に有利な情状としてこれを考慮すべきものと考える。

3  前記1で述べたような本件犯行までの経過等からすると、被害者において、被告人方の家人が不在であることに気付いていた、あるいは注意すれば気付くことができたと思われるのに、職務に熱心のあまり、かつ親切心から見ず知らずの被告人方居間に立ち入ってまで調査票の記入方法を教えてやったことが却って仇になったと言えなくはないが、それにしても、被害者が国勢調査員として活動したのは初めての経験であったことや被告人方訪問の時間帯及び次に述べるような担当行政機関等の指示、指導内容や監督態勢上の問題等に徴すると、右のような点につき、被害者自身に落ち度があったとしてこれに責任の一端を転嫁することはできないと言うべきである。

ところで、国勢調査の実施に当たっては、事柄の性質上、国勢調査員が住民個人のプライヴァシーに関する紛争に巻き込まれ、あるいは調査困難な種々の場面に遭遇すること等が十分予想され、これに対応するために、不十分ながらも代替的調査方法や夜間指導員制度などの対策が講じられていたのであるから、所轄行政官庁としては、直接調査に当たる国勢調査員や国勢調査指導員らに対して、予想される種々の紛争や調査困難な場面(この中には、調査員の生命、身体等に対する危険が発生するおそれがある場合を含むことは当然であろう。)などについての注意とこれに対する心構え、対応策等を十分に説明することが要求されているものと言える。しかも民間人を調査員等に任命して短期間に効率的に調査を実施する必要上、現実には比較的に時間の余裕のある主婦や老人を調査員、調査指導員に任命することが多くなると考えられるところ、その担当地域が、住民の移動の激しい都会地及びその周辺部等である場合には、このような女性や老人の調査員らと日常顔も知らずに生活している住民らとの接触方法等につき、特段の配慮が必要であると思われ、この点に関する前記注意や指導等の措置が十分に講じられるべきであろう。そして、このような措置が十分に講じられていて初めて、末端の調査員らにおいても、その調査に当っては、万一の不測の事態をも考えて十分に用心深く対処する姿勢と心構えができ、かつ周囲の者としてもそれを期待することが可能となると考えられるのである。

ところが、被告人方を含む広島市〈住所略〉付近の地域は、近くにある私立大学の学生用のアパートのほか、一般住宅、アパート等が密集する新興住宅区域であり、そこを担当する調査員九名のうち七名までが女性であった(ちなみに、本件当時の○○区役所管内の国勢調査員合計九七九人のうち、約六五パーセントにあたる六三七人が女性であった。)にもかかわらず、右地域を含む祇園地区の国勢調査員及び国勢調査指導員に対する区役所係員による説明会の席上においても、このような点を念頭に置いた適切かつ十分な指示、指導がなされたとは到底言えず、他に右のような点について、末端の調査員の注意を促すような措置が講じられた形跡も認められない。

そうすると、弁護人が指摘するように、本件においては、所轄の行政官庁が、被害者のような経験の浅い一般民間人の主婦が多数を占めると思われる国勢調査員に対して、その職務遂行の困難性や予想される各種事態等とそれに対する方法等について、十分な配慮と関心をもって注意を促し、適切な指導をしていたならば、被害者においていま少し用心深い行動を取ることができ、場合によっては本件のような悲惨な事件が発生することを避け得たのではなかろうかとの疑問ないし反省の思いが生じるのも当然であって、これが検察官の主張するように不合理な論点のすり替えであって量刑上顧慮するに値しないとして一蹴することは、本件の場合必ずしも当を得ないものと考えられる。そうだとすると、本件においては、この点に関する所轄行政官庁の極めて安易かつ不十分な指導、監督態勢が、間接的にではあるが、本件第一の犯行を容易にし、あるいはこれを誘発した原因ないしは背景のひとつとなったものと言えないことはない。その意味において、右のような事情は、これにさほど大きな比重を与え得ないにしても、これを本件における量刑資料の一つとして考慮せざるを得ないと考えられる。

以上のほか、被告人及びその家族らが当公判廷において開陳している深刻な反省、後悔の情と被害者及びその遺族に対する謝罪の念、被告人の更正可能性とこれに対する家族らの援助、協力の意思等、本件に現れた一切の事情を総合考慮したうえ、当裁判所は、被告人を懲役一八年(求刑意見は前記のとおり懲役二〇年)に処するのが相当と思料する。

よって、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官藤戸憲二 裁判官若園敦雄 裁判官臼山正人は転補のため、署名押印することができない。裁判長裁判官藤戸憲二)

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